インドネシア・スマトラ島の火山

2月7日から13日まで、インドネシアスマトラ島の最高峰のクリンチ火山(3805m)に、日本山岳会信濃支部を中心とした、おじさんメンバー10名で登ってきました。前の週に、500kmほど北にある火山が噴火し、亡くなった方もおられるという状況で、8日は大雪になるだろうという中、関空から、お昼に出発し、夕方にジャカルタ空港に着きました。

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空港の近くのホテルに一泊して、2月8日、ジャワ島からスマトラ島へ飛び、余計な荷物を、ガイドの方の親戚の家に預けて、火山のふもとのケルシック・トゥオ村(標高1500m)に向かうものの、私が持ってゆく荷物を、庭に置き忘れて戻ったり(^-^;、車が4回ほど動かなくなって大変な7時間のドライブとなった。途中で、この地方のパダン料理の食堂で昼飯。カレーの中に、鶏肉や、魚の頭が入っていて辛いが、好みの味である。(^^)/

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なんとか、登山基地のケルシック・トゥオ村の簡易宿泊所(なぜかホームスティという名・許可が要らないのかも)に泊まった。ご主人は、労働事故に対する対処を行う仕事をしており、立派な救急車?でご出勤、朝と晩だけ、奥さんの作った食事をサーブしてくれる。

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ここらへんは、イスラム教なので、そこらじゅうに、モスクがあり、何故か朝4時半から5時半まで、馬鹿でかいスピーカーのお祈りの音で起床させられてしまうのだ。ビールなども、自由には飲めず、途中の売店で買っていって冷やしてもらうか、食堂などではボーイさんに、周りに気を使いながら、買いに行ってもらうのだ。山は、良く富士山と似ていて、1.5倍くらいに大きくした感じだ。森林限界は、3200mくらいとのこと。

2月9日、荷物のポーターの件で、もめて、出発時間が1時間ほど遅れ、なんとか出発。無理やり10人乗りに改造したワンボックスの屋根の上に、荷物と、人間が3人乗った。なんにもステイもなく、細い紐一本にしがみついているだけだ。オイオイ大丈夫かよ・・・(^-^; 写真はあるのだが、国際問題に発展すると困るので、ここには載せません。

ジャガイモ畑の中にある、登山口(1700m)より登山開始。ここらへんは、お茶畑や、シナモン畑、富士山みたいな山も見え、まるで、静岡みたいな感じ。今日は3300mまでの行程である。最初は、熱帯雨林のジャングルの中を行く。

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様々な、鳥や、サルの声を聴きながら、ゆっくりと登って行く。昨日は土曜日だったので、地元の学生のパーティーも何パーティか登っていて、朝登頂を果たした彼らが降りてきて、挨拶をする。

 

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きっと、お金持ちの大学生に違いない。実は、上高地にも2年ほど前から、インドネシア人の若いグループが泊まりに来るようになったので、彼らは、将来のお客様かもしれない。装備もなかなかいいものを持っていた。初老のパーティーを見てびっくりしただろう。

ジャングルを抜けてからが地獄であった。雨季は終わったばかりだとのことだが、ルートがひどい。いうなれば、泥の溝である。それも幅が狭く、人一人がギリギリで通れ、高さは5mはあるだろうか。ところどころオーバーハングになっており、なんとか周りの木々を利用して高巻きをするので、体力を消耗するし、泥だらけだ。これが、200mくらいなら、日本にもあるが、標高差で700m、距離では3キロは続くのである。

まして、泥のルートの中に、真新しいペットボトルや、お菓子の包装紙などが捨て放題になっていて、とても写真を撮ろうとなどは思えない有様だ。さっき会った、若者たちを教育しなおさなければならない。やっとアタックキャンプにたどり着く手前が、またひどい、キャンプのごみは捨て放題、それが雨で、泥溝の中に流れ込んでいる。サウルコルのごみどころではない! このルートは、 Be patient! と名付けよう。学生たちに清掃登山するように言おう! 本当に国立公園か? でも、日本アルプスの50年前は・・・

 

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2月10日、夜半から強い風がテントを襲ったが、朝になると少し弱まって、まぁまぁのアタック日和である、4時過ぎにヘッドランプと、ヤッケなどを身に着けて出発。ボロボロの火山岩の中の溝に出たり入ったりしながら、高度を上げる。ごみも少なくなって、気分がよくなってきた。

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3750mを超えると、晴れているはずなのに、ガスが周囲を覆う。息が苦しいというより、咳がでる。300m下の火口からの亜硫酸ガスだ。焼岳の硫黄ガスより強烈なので、皆、口を押えている。6時20分に頂上に着いた。朝日がまぶしい。

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頂上では、地元のガイドさんやポーターさんたちと、五輪真弓の「心の友」を一緒に歌った。日本では、あまり知られていないこの歌も、ここインドネシアでは、第二の国歌とも呼ばれているらしく、若い人もメロディは知っていた。

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下山は、皆早いが、滑りやすく、ストックを使っても、難渋した。しかし、眼下に広がる展望は素晴らしく、アタックキャンプまでは、快適な下山だった。頂上近くから、Facebookに画像を送ることができた。松本は、50センチも雪が降ったとのこと。帰ったら女房に文句をいわれそうだ。

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アタックキャンプで、とってもしょっぱい、ラーメンの朝ごはんをいただき、また、地獄のようなルートを下山して、ヘロヘロになって、登山口へ降りると、ジャガイモの取入れをしたお兄さんが、モトクロッサーで、運搬するところだった。おそらく50㎏を5袋は一台に積んでいるだろう。素晴らしい運転技術なのだろう。バイクは壊れないのか心配だ。

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帰りも、宿泊所まで、ワンボックスに10人と、屋根の上には、荷物と、人間が4人(^-^;、良く振り落とされないもんだ。

さっそく、冷やしてもらったビールで乾杯したのは言うまでもない。

残念ながら、宿泊施設にシャワーはなくて、体を拭いただけだけど、ビールさえあれば、満足満足(^◇^)

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2月11日、滞在した村を後に、パダンまで、7時間のドライブ。帰りは気楽なものだ。暑いけれど、途中ののどかな農村や、スマトラ王朝発祥の宮殿?を見学したり、また、途中の湖が3つある所を通ったりで楽しめた。

 

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村から、パダンまでの移動に使ったワンボックス。スズキのアリーナという7人乗りだ。はっきりいって、自家用車も、トラックも、日本車しか走っていないのだ。

 

パダンのホテルで、やっとシャワーを浴び、夕食のレストランへ、例によって辛いパダン料理を食べるが、最初ビールはダメと言われ、しょげていると、終わるころになってやっと出してくれた。どっかに買いに行っていたのだろう。今回は、タラコのカレー漬けみたいなものも出た。

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皆疲れているらしく、部屋でも、あまり持ち込みのウイスキーは飲まずに、寝ました。やっと、ホテルのWi-Fiが使え、ソチオリンピックのことが、しっかりと分かるようになった。なにせ、こちら南国では、冬期オリンピックなど、誰も関心があるはずもなく、どこ吹く風であった。そういえば、子供の長野オリンピック休みで、座間味にクジラを見に行き、非県民をしたこともあるが、暑い中でも、原田がジャンプを跳ぶのを、テレビでしっかり見ていたことを思い出す。

2月12日、今日は、ブキティンギという観光地へ出かける。あまり観光には興味がないのだが、ごみが落ちていそうもないところへ行けるのはうれしい。

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ここの、ネイティブ民族である、ミナンカバウ族の伝統的な宮殿。水牛の角のような、屋根が特徴的だ。

 ホテルには戻らず、夕方の飛行機で、ジャカルタ、トランジットで、さらに、バリ島のデンパサールに飛び、深夜の便で、関空へと帰還。2月13日朝、そのまま、まともな10人乗りのタクシーで、松本へ帰りました。14にの午前中、私は、さっそく大雪になる前に上高地へ施設点検に行ってきました。

 14日の午後からの大雪は、みなさん、ご存じのとおり、松本で75センチも降って、休む暇もなく、雪かきに追われました・・・( ;∀;)

バックカントリースキーの履歴書3

 あまりに、ブログの更新が遅いので、周りの皆さんから顰蹙を買い、スタッフブログを開設して、スタッフに書いてもらうことにしました。

さて、履歴書1と2に書いた、1978年「槍~立山スキー縦走」のあと、アラスカに渡り、植村直己さんも登った、サンフォードという5000m程度の山をスキー登山し、帰国。 その後、シャモニでテント生活を2ヶ月ほどやりながら、モンブラン・ブレンバフェースや、ミディ南壁など、そこらへんの岩場を登り、冬はスイスに移動して、山岳ガイドさんの家に下宿させてもらい、スイスの色々な山を一緒にスキーで滑りました。この間に、故森田勝さんの、グランドジョラス単独登攀のサポートに出かけたりもしました。

3月には、ローゼンラウイ(グリンデルワルドの反対側)から地元のガイドたちに混じって、一日でヴェッターホルンをスキー登山することができました。しかし、バテました。4月と5月には悪天候のため、2回にわたる攻撃で、シャモニ~ザスフェのオートルートを、なんとか滑り終え、年貢の納め時と、帰国して就職しました。

その後、スキーでは、3月の畳岩の中央ルンゼも、登って滑ったのですが、なにしろ、「落ちてきたら拾ってやる」とルンゼの入り口で、犬と待っていた父が、コンパクトカメラで撮った私が点のように写っている写真しかないので、その後、今頃の季節に滑った、奥穂直登ルンゼ~前穂北尾根3・4のコル~奥又白C沢~松高ルンゼの写真があったので、載せておきます。もちろん若かりし時です。

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北尾根3・4のコルからC沢へドロップ

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滑り終えて・・・ 足元は地元民の長靴に変わっている。

厳冬期?の六百山

2月5日から7日まで、従業員3人と、上高地に行ってきました。 昨年の11月の山じまいの飲み会で、酔っぱらった私は、2月にウインターミーティングを西糸屋の冬季小舎でやるのだと、のたまったらしいのだが、本人には記憶がなく、スマホに記録されていた(^_^.)

さて、沖縄でサトウキビを刈っていたA君、松本在住のやはりA君、そして茨木から駆け付けたS君のアラサー(若い!)の三人と朝四時にコンビニで待ち合わせて、車一台で上高地へ向かう。昨晩は、銀行の新年会に出ていた私をはじめ、遅くまでクライミングジムで登っていた2人と夜のバスで遅く着いた1人は皆寝不足である。

釜トンネル上の工事があり、当然釜トンネルから歩きで、河童橋へ。前日は雨で、今日は晴れて、とても冷え込むということだったが、意外と暖かく、トレースを外すと潜ってしまう。ちょっと不安を覚える・・・

焼岳

7時ころ河童橋に着く、いい天気だが、意外に雪が少ない。焼岳に日があたってきてきれいだ。

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河童橋の上は、人の足跡は無く、静寂そのもの! メンテ用の冬期小舎に向かうが、ボソボソと潜ってしまい、体力を消耗する。小舎に余分な荷物を置いて、いよいよ、公衆トイレの下から、中畠沢に入ってゆく。もちろん潜るので、わかんを付けているのだが、雪の状態が悪く、時々ずっぽり潜る。年寄りには辛い登りだ。

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ルートを知っているのは私だけなので、ガイドなのだが、皆の後を、ゼーゼー言いながら、遅れて付いてゆく情けないガイドだ。それでも、やがて、樹林帯を抜け、沢に入ってゆくと、デブリ(雪崩の跡)となり、沈まなくなってきたので、ちょっと復活!アイゼンを付ける。登るにつれて、後方の穂高がどんどんせりあがってゆく。2月の沢は、普通は入ってはいけないのが常識だが、この沢は、日が当たらないし、父とスキーの練習で2月にもよく来ていたから、大丈夫かどうかの判断はできる。

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もうすぐ稜線なのだが、沢は氷化してカチカチとなってきたし、時々カラカラと氷が上から落ちてくる。この上もアイゼンで快適に登れると思っていたが、ここからが大変だった。表面は堅い最中雪、中はグラニュー糖のような雪、全然進まなくなってしまった。なんとか稜線にでたものの、状態は変わらない。アイゼンとわかんを両方付ける技をつかってもダメ・・・

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なんとか、雪をだましだまし登ってゆくが、不安定なことこの上なし。時間もタイムリミットの13時に近づいてきた。

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頂上手前のピークで、今日はよしとしよう。標高差で100Mだが、無理して登っても、帰りがつらいし、なんといっても、隊長の私の体力がもたないだろう(^_^.)  しかし、2月とは思えないほど暖かい。風もなく、昼寝をしたいくらいだ。下りに、安全のため、1ピッチだけ、45Mのロープフィックスしたが、下りとなると、皆早い。さっきまでバテていた私もうそのように、バンバン下る。氷化した部分の下りには慎重に時間をかけたが、日が高いうちに河童橋に着いた。

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雪は少なめだが、やはりここからの景色は別格だと思う。 冬期小屋に戻り、水汲みをしたり、ストーブに火を入れたり、生活できる準備を整え、まずはビールで乾杯!

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次の日は、打って変わって、湿った雪が降っている。今日は、施設の見回りをして、その後は、クロカンのスキーで遊ぶ予定だったが、世の中そんなに甘くない。裏を見に行って驚いた! いつのも2倍の雪が一階の食堂の上に二階の屋根に届くほど載っていて、建物が潰れては大変と、急きょ雪おろしとなった。いつもは一人だが、こんな時4人でやると仕事がはかどる。)^o^(

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なんとか雪を下し終わった。おじさんは、腰が痛くなってしまった。若い人と一緒のペースでやるとダメだと分かった。午後は、施設内の見回りを皆でやり、夕方には晴れてきたので、若い衆をクロカンをやってこいと追い出して、一人の時間に浸る。

翌日、下山したが、2月の平日というのに、30人くらいの人たちとすれ違ってびっくりした。

 

バックカントリースキーの履歴書2

1978年3月16日、最初は上高地までの予定だったので、沢渡を9時過ぎに歩きだすが、天気を考えて、無理してでも槍沢ロッジまで行くことにした。重荷と、桟道そして、暗闇中のヘッドランプのスキー歩行で、着いたのは夜8時前になってしまったが、バテていても、槍沢を朝になる前に登ってしまわなければ、雪崩の危険性があるので、朝4時前には出発し、坊主の岩小屋でアイゼン、槍の頂上は登らず、樅沢岳へ、最初のスキー滑降を終えて、16時に双六小屋。

18日、2日間頑張りすぎたので、今日は三俣蓮華を越えて、なつかしの黒部五郎小舎までとする。

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快適に稜線を、三俣蓮華岳に向かう。きつい登りは、シールが効かず、腕がパンパンになる。三俣蓮華からは、最初はクラストしていたが、快適なスキー滑降で、最後はパウダー (^。^)

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黒部五郎岳をバックに快適に滑る。

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クラストしていて、ちょっと緊張する。

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雪に埋もれた、黒部五郎小舎、冬期小舎のみが出ている。右上の斜面のパウダーを降りてきたのです。

19日は悪天で滞在、20日には黒部五郎岳を越えて太郎小屋まで・・・ 頂上からの下りの最初は氷になっていて、少し流されてしまって(滑落ともいう)緊張するが、太郎小屋までは、ほとんど登りが無くて、スキーの上に立っているだけで着いてしまった。

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21日、天気が崩れそうだが、太郎小屋に、単独で折立から登ってきていた愛知大山岳部OBの方と一緒に薬師岳へ向かい、頂上で写真を撮ってもらう。この日は、この後吹雪となり、スゴ乗越まで。22日と23日と吹雪で滞在。食料をたくさん持ってきて良かった。

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24日、スゴから五色ケ原まで、大きなシュカブラと越中沢岳の登りに苦労して、辿りつく。

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25日、ザラ峠を越え、鬼岳でザイルを組む。浄土山の頂上で剣をバックにゆっくり休み、一の越へ

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26日、一の越から、雄山をアタックし、天狗平の手前までは、シールを付けたまま。ここでシールを外し、ワックスを塗って待望の大滑降だ。薬師をバックに、軽くなった荷物で、美女平まで飛ばす (^。^)

この夜は、富山のビジネスホテル泊りだったが、黒部五郎小舎の見回りの報酬?の2万円を握りしめ、今ならすぐ・・・クラとか・・・パブに行くところだが、35年前は食い気のみ。とんかつ屋から始まり、うなぎ屋、そして寿司屋と酒もほとんど飲まずに食いまくり、最後はパフェで締めた。 不思議なことに腹をこわさなかったのは、若かったからだろうな(^_^;)

ついでですが、卒業が危ぶまれていた私は、この山行中に卒業できることになっていたそうな。もちろん卒業式も出れずに・・・

バックカントリースキーの履歴書1

そろそろ、各地のスキー場も、終了を迎えようとしています。でも雪の多かった北部のスキー場は、延長するところもあるようです。

ごれからは、本格的にバックカントリースキーのシーズンになります。昔は、山スキーなどと言っておりました。この季節には、子供の頃から、父に連れられて、スキー場を飛び出し、鈴蘭~乗鞍岳~平湯~西穂山荘~上高地、妙高山、栂池~蓮華温泉(雪倉岳)などは、高校生くらいまでで登りました。道具は、ほとんど、ゲレンデスキーのもので、足の上がるビンディングなどは、親父しか履いていませんでした。

大学で山岳部に入りましたが、山スキーは盛んではなく、一年生で冬の剣の早月尾根を登った時などは、個人装備と団体装備のほかに、嗜好品の一部として190センチのスキーを担いで行き、帰りに荷物をいっぱい背負わされて、スキーができず、番場島から伊折まで、先輩が自分のスキーで滑ってゆくのを悲しく見送った覚えがあります。(;_;)/~~~ でも、早く着いて、待っていた先輩は、風邪を引いたそうな・・・ 天罰?

 このころ、思いはヨーロッパのオートルート(シャモニ~ツエルマット~ザスフェ)にありましたが、心に秘めて、岩登りや冬の縦走などの合宿を頑張っていました。4年生になり、リーダーになったものの、山スキーを主体にするわけにもいかず、たまたま、小樽に居たことがある一年生が入ってきたので、特に可愛がって鍛え(^_^;)、春合宿が無事終了した後、2人で個人山行として、槍ヶ岳~立山のスキー縦走をすることができました。1978年の春の事です。

 なにせ、二十歳やそこらの2人が3月に黒部の奥地に入るのですから大変です。当時は、携帯も無く、孤立無援になることも考え、営んでいた黒部五郎小舎に一週間分の食料と酒(合宿では禁止)をデポしておいたのですが、それでも荷物は20キロを超えました。スキー登山靴などはなく、バーゲンで買ったメタルのショートスキー(折れてもなんとか滑れるのではと思った)にその頃出始めた、ワイヤー式のジルブレッタ(換えのワイヤー3本)を付け、シールなどは、3000円で売っていたナイロンと布のをナイロンの部分を外して、カーペット用の両面テープで張り付け、立山の一の越まで貼りっぱなしで、滑る時も大丈夫でした。と書くと、快適なように思われますが、滑るのはいいとして、登るときにも滑っていまい、腕の力で登ったようなものです・・・  2に続きます

パプアニューギニアの山(5)と海

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2月9日、下山の日、やはり夜の間は、雨が降っていたが、朝は晴れた。朝日がきれいだ! 今日は、2時間半ほどの下りと、恐怖のランクルドライブで、ゴロカの町まで行く。夜は、酒が飲めるぞと意気込んで、皆下ってゆく。

ベティロッジまで下ると、すでに、2台のランクルが待っていた。 ガイドのドル君には、私も日本ではガイド(引退間近だけど)をやっているのだが、「きっと君はいいガイドになる」と言って別れた。日本に来たら寄ってくれとも言ったが、ベティさんはともかく、無理だろうなーー

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ドロドロの道を、ランクルは下ってゆく。途中、沢が押し出して、土砂崩れになっており、そこに村人がスコップを持って何人もいて、車は止まってしまった。復旧作業をしたので、通行料をくれと言っているらしい。ドライバーは仕方なく払って、なんとか通過。

相変わらず、ひどいハイウエイを、腰を痛めながらゴロカへ帰ってきた。

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ゴロカのホテルは、極楽鳥ホテル、地元の人と結婚した、日本の女性で、こっちのエージェントと土産物店をやっているMさんが、行きと同じように、チェックインなど全て円滑に処理してくれた。 へやに入って、シャワーを浴びたら、ホテルの前のスーパーで缶ビールを買って、とりあえず乾杯だ。残った焼酎や日本酒、そしてHさんのおごりのワインも加わって、宴会は続く(*^^)v

ディナーでもワインを2本飲んで、しっかりと寝てしまった。翌朝、Mさんに持ってきた長靴をもらっていただいた。こんな高価なものをとおっしゃったが、とても、D2で1200円だったとは言えなかった(^_^;)

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ゴロカの空港を後にポートモレスビー、そして、今日の宿泊先のリゾートである、ロロアタ島へ向かう。登山服から、ビーチにふさわしい服装になり、気分一新。3回も上高地に来ていただいている、ハワイのお客さんから5年前にいただいた、アロハシャツをやっと着ることができました。(日本では、恥ずかしくて着れない)

 ポートモレスビーに着いて、聞くと、ここのところオーストラリアから、サイクロンがやってきて大雨だったとのこと、今は曇っているだけ、俺たちはツイている(^-^)

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ロロアタ島へ渡る船に乗り込み、皆は2階の展望のいいところで景色を見ているが、私は1階で、今夜のディナーのカニを発見してしまった。20分ほどの航海で島の桟橋に着き、リゾートの人となる。

近くにはサンゴ礁があり、ダイビングやシュノーケリングで有名だそうなので、しょっぱい海水の嫌いな私も仕方なく小舟に乗せられて、近くの小島でシュノーケリングのお付き合いをした。水中眼鏡で見る海の中の魚はきれいだったけど・・・ 足の裏にサンゴでケガをしてしまった。ちゃんと靴を履けば良かった(;一_一)

ワラビーと、バカでかいハトが一緒に餌を食べているのを見ているとなごんだ (*^_^*)

夜は、お決まりの地元の皆さんのダンスを鑑賞しながらディナー、やっぱりカニがでてうれしー!

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2月11日、最終日、島を後に空港へ、ロロアタ島は、小さな島で、電気は40KWの自家発電機、そして、飲み水は、天水と、海水を真水にする装置で賄っている。船のキャプテンでもある白人のオーナーはダイビング好きが高じて、地元の女性と結婚して居ついてしまったようだ。今度来るなら、一週間ほど家族と滞在したいほど気持ちのいいところだった(昼間は暑いけど・・)

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さて、ここまで、独断と偏見に満ちた、拙稿をお読みいただいて、ありがとうございました。これからも、この経験を、上高地で生かして、お客様をお迎えしたいと思っております。 最後に、一緒に楽しんだ、旅の仲間に、そして旅を支えていただいた皆様に最大限の感謝を申し上げて、筆を置きたいと思います。

パプアニューギニアの山(4)

夜、雨が小屋のトタン屋根をたたく、結構激しく降っているようだ。深夜0時に起床して、朝食。まだ雨は止んでいない。朝食も、日本から持ってきた、モチとみそ汁、または、現地で売っていたカップ麺、私はカップ麺を選択したが、インドネシア産のミゴレンの汁そばで、なかなか難しい味であったが、なんとかいただき、1時出発。

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まだ、霧雨が止まないが、ヘッドランプの光を頼りに進んでゆく。ガイドは、肩掛けのサーチライトを使用している。雨具などはなく、普通のジャンバーだ。 アウンデ湖のほとりを過ぎて、登りにかかる。

この山の難しさは、高度順化ができていない場合にある。といっても、昨年、60歳代にして、チベットの6000M級の未登峰の難ルートを初登攀した現役クライマーMさんを除いては、順化できている者はいない。4000Mまでは、まっすぐ登るのだが、その後の500Mは、右上にトラバースをしながら、何キロも行かねばならない。

トラバースの途中で、高度障害になっても、簡単に高度を下げることができず、重大な事態になる場合を考え、わがリーダーは、4000M地点で、頭痛と吐き気があり、行動が遅くなった、新聞記者のTさんに引導を渡して、下山してもらった。正しい判断だと思われる。

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先頭のUさんが、ゆっくりのペースを守って皆を導いている。4000Mの怖さを知っているからだ。私も、1980年にインドヒマラヤのガンゴトリ山群が解禁された時、すぐに出かけ、若くて血気盛んだった私は、ポーターと同じ荷物を背負って4200Mまで一気に登ってしまい、当然高山病になって、担ぎ下ろされた経験があるから、有り難かった。

戦時中に墜落したB25の残骸を過ぎ、稜線に出たり、トラバースを繰り返したりしているうちに、空が白んで稜線がくっきり見えてきた。少し頭が痛いが、腹式呼吸を繰り返して登ってゆく。アンテナの立っているニセピークを巻き込み、ウイルヘルム山の頂上が見えてきた。

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まるで、穂高の稜線のような感じで、全然違和感がない。左に回り込み、黒い花崗岩の、快適な岩を楽しみながら4508Mの頂上へ立つ。早い人は7時15分、ゆっくりの人は7時40分。

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結構風があり、気温は5度以下なので、寒く感じる。天候は高曇りで、景色は良く見えた。少し滞在し、下山を開始することには、お天気が良くなってきて、晴れてきてしまった。しかし、いつ悪天候になるか分からないので、あまりゆっくりすることもできない。

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晴れて、太陽があたってきたので、岩肌はどんどん乾き、日焼けが心配になるほどだ。夜中から行動しているのと、少し高度の影響が出ているのだろうか、眠い。特に、ガイドたちは、ほとんど寝ていないとかで、休みの時は横になって寝ている。暑くなってきたので、どんどん薄着になり、高度を下げる(といっても、あまり下がらない・・・)

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登るときには、見えなかった、人食い湖が見える。周りが赤いため、そういわれているそうだ。ここからは、どんどん高度が下げられる。だいぶ楽になってきた。

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周りが岸壁に囲まれ、荒々しい風貌の、アウンデ湖を過ぎ、お昼頃、全員が無事Aフレーム小屋まで下山した。昼寝をする者あり、散策するものありで自由に過ごす。いつも、酒酒とうるさい、このメンバーにしては珍しく、酒類を荷揚げしておらず、夜は祝杯を挙げることもなく語り合った。 (^。^)

パプアニューギニアの山(3)

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ベティズロッジのボイラー、これでお湯を沸かして、供給しているのだそうだ。

2月7日、鳥の専門家のUさんは、朝から大きな望遠レンズ付きの一眼レフを持って、極楽鳥を探しまわっている。

コンチネンタルスタイルのおいしい朝食をいただき、出発の準備にかかる。ポーターがつき(大体近くの部落の女性が多い)、シュラフなどの荷物を背負ってくれるので、小さなザックに雨具や水などを入れるだけ。申し訳ないようだが、これも、地元の雇用の場として、大事なことなのだ。

ポーターのほかに、アタックの日だけつくと思っていたガイドさんも、つくことになった。なんと、マンツーマンだ。昔はそんなことはなかったようだが、これも彼らの稼ぎの為だ。私のガイドさんは、ドル君、25歳の独身で、すでに17回ウイリヘルムに登っているという。英語は公用語なので、色々話そうとするが、お互いシャイ?なので、ボソボソと会話をする。右手に、刃渡り50センチくらいの山刀をぶら下げていて、ちょっと怖い(*_*;

朝、8時半頃出発、今日の行程は、3440Mのピュンデ湖ほとりの小屋までなので、上高地から岳沢よりちょっと上まで登る程度、高度の影響も出ないだろう。問題は、湿地帯の通過で、その為に日本からはるばる、長靴を持ってきたのだ。ひどい時は、膝までもぐってしまうこともあるという。

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金網に隔てられた、ベティさんの土地を右に見て、熱帯雨林の中、整備された歩道を進み、開けた場所に9時、そこから、いよいよ

湿地帯に入ってゆく。写真は、上から見下ろしたものだが、右側の樹林と湿地のコンタクトを登る。一回滑って、長靴の中に水が入ってしまったが、大したことなく、アウンデ湖下の滝へ。ガイドのドル君は、山刀を杖代わりにしたり、ブッシュを切りはらったり、しているが、時々、首の後ろに回していて、見ていて大丈夫かと思ってしまう。

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ちょっと登ったら、もう、Aフレーム小屋についてしまった。奥の小屋が、居住するところで、ちゃんとマットもあって、シュラフで快適に寝ることができる。手前の三角小屋は、昔営んでいた、黒部五郎小舎を思い出させる建物だが、食堂と、管理人の宿舎となっている。トイレは、別のところにあり、ポットントイレだが、屋根付きで、お釣りは来ない・・(^^ゞ ガイドさんたちは、別の掘立小屋に泊るらしい。 ピウンデ湖は、女の湖という。 周りが岸壁に囲まれておらず、穏やかなためらしい。小さな島が見える。

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一休みして、高度順化と偵察のため、アウンデ湖の上(3600M)まで登る。ほんとは、もっと上まで登りたかったのだが、ガイドさんたちもここでいいというので、仕方なく、引き返す。

夕食は、今夜のために、日本から持ってきたカレーのルーと、現地の方に頼んでおいた野菜や鶏肉を使って日本式のカレーを作って、明日のアタックに備える。リーダーのAさんは、キッチンの女性に適切に指示を与え、おいしいカレーを食べることができた。本当にありがとう! さあ、明日は11時間行程。 7時にはシュラフに入って寝てしまった。

パプアニューギニアの山(2)

2月6日、登山基地の町ゴロカ(東京をポートモレスビーとすれば、松本みたいなもの)を出て、地元の人たちがハイウエイと言っている道を、ランドクルーザー2台に荷物と、ガイドたちと9人が分乗して出発、5分もたたぬうちにタイヤの空気が無いのでと停車、これからに不安を感じさせる・・・

ここを走っている、自動車は、ほとんどがトヨタのランドクルーザー(トラックもある)で、他も、100%近くが日本車で占められている。あとで、その理由を知ることになる。他の車では走れないし、耐久性が持たないのだ。

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最初は、アスファルトのまぁまぁの道だったが、2,480mの峠を越えるころから、舗装がところどころ剥がれており、荷台にある、クッションのない簡素な横向きのシートに座っていると、時々突き上げるようなショックが腰を襲う・・・(@_@;) こんな道でも、アメリカのkenworth社のコンボイは、コンテナーを積んで爆走している。

聞けば、液化天然ガスのプラントを日本が受注して、その建設に向かっているらしい。生産量の660万トンのうち半分が日本用なのだそうだ。 T電さんも購入先だそうだ。つかまるところも無く、足を突っ張っているので、とても、車内では写真が撮れる状況ではない。 道端には、小さな売店?が並び、大勢の人がだだ歩いているか、バス(といってもトラックの荷台)を待っている。

なぜか、検問だけ一人前で、定員や、整備のステッカーを貼ってあるかなど、調べられ、一台は、フロントガラスを交換していて、ステッカーがなかったので、罰金を取られ、ドライバーが怒り狂ったそうな・・・

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ハイウエイと山道の分岐の町、クンデアワで、昼食をとり、いよいよ本格的な未舗装路となる。

ここにも、簡素な飛行場があり、ニューギニア航空の路線図にもあったので、飛行機でこれるかも知れない。 

雨季なので、最近起きたばかりの、土砂崩れ現場をなんとか通り抜けてゆくが、振動はハイウエイの比ではない。全身でへばりついている感じで、休んだ時しか写真が撮れない。不思議なことに、道幅は昔の上高地線の2倍はあるので、谷底に落ちる不安は、あまり感じないで済んだ。

ランクルでも、通れるか通れないかの場所には、何故か村の人たちが何人か立っている。止まったら、押してくれるらしい。見返りは求めないのだろうか??

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突っ張っていた、腕も足も疲れ果て、ケグスグル村のベティさんのロッジ(2700M)に着く。歓迎の花の文字がうれしい。 今後来る方は、車に乗るときには、低反発マットとヘルメットを装着することをお勧めする。(>_<)

ちょっと手前の、マウントウイリヘルムハイスクール(寄宿学校)の前に、ブッシュ飛行場があったので、クンデアワから、アラスカのアプローチに使うような、軽飛行機かヘリをチャーターするのもひとつのやり方だと思う。

ベティさんは、3か月ほど、松本近くの明科町で、マスの養殖を学んでいたことがあるそうで、全員が松本の人間だと言ったら、大歓迎を受けた。明科では、いつも、金曜日には、みんなで飲みに行っていたそうだ。

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早速、ベティさんの自宅のそばの、養殖場に案内してもらう。 本格的なもので、びっくり。5m位の円形のプールには、何万匹いるのか分からないほどのマスの稚魚が泳いでいた。 JAICAの協力も得て、作ったが、一回、川の決壊ですべてを失ったが、再度作ったそうだ。まさに、肝っ玉母さんだ。ベディさんのロッジは2段ベッドの部屋だが、清潔で、マスのスープやムニエルやフルーツ、デザートまで、食事もおいしい。とても山の中とは思えない。

パプアニューギニアの山(1)

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2月4日から1週間、パプアニューギニアの最高峰である、ウイルヘルム山(4508m)に登ってきました。パプアニューギニアは、オーストラリアのすぐ右上にある大きな島で、左半分はインドネシアになっています。

第二次世界大戦の時は、ラバウルやレイなど、日本軍が無援の戦いを強いられ、多くの日本兵が亡くなった悲しい歴史のあるところでもあります。

仲間は、日本山岳会信濃支部で、何人かは同じガイド組織に属しており、年齢は、50代後半から70代前半までの8人と、毎日新聞の記者さんでした。年はとっていても、皆、現役で山を続けており、8000mを登ったことがあるAさんをはじめ、ほとんどの隊員が5000m以上を経験しており、天候を除けばあまり不安は感じませんでした。

日本から、6時間半ほどの直行便で、首都ポートモレスビーに早朝着き、国内線に乗り換えて、1600mの高地にある町、ゴロカまで、一気に入ってしまうので、暑さに弱い私でも、なんとかなりました。しかし、-10度から、30度は、なかなか順化は難しかった・・・

 

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40人乗りの双発機は、ネパールの、カトマンズからポカラの時に乗ったものと同じものでした。道路や鉄道が通じていないので、地元の人が、野菜や果物、生活必需品と一緒に乗り込んできました。

1時間半ほどのフライトで、ゴロカの空港に着くと、金網の向こうで、学校の制服を着た、若い女の子たちが、大勢、わんわんと泣き叫んでいて、びっくりしました。まさか、この土地では、これが歓迎の挨拶なのだろうかと思いましたが、実は数日前にレイ沖で沈没したフェリーの乗客の中に、同級生がいて、その遺体が、私たちとともに運ばれてきたのでした。知らなかったこととはいえ、失礼なことを考えてしまったものです。ごめんなさい。

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早速、ホテルにチェックインして、町のマーケットへと見物に出かけました。果物(特にパイナップルが旬)はもちろん、日本にある野菜はなんでも、そして、シダ類みたいなものも売っており、なんか親しみを感じましたが値切りは禁止だそうで、みんなが同じ値段で、同じものをいっぱい売っているのだから、競争原理が働かないのではと思うのですが、そんなことは、現地の人にしてみれば、変な東洋人の考えることでしかないのでしょう?

ホテルに戻って、日本にローミングの携帯電話で連絡しようとしましたが、できません。ネット接続もできると書いてあったのですが、最近の悪天候で、壊れているそうだ。携帯電話だけでも、山に持って行こうという思惑はここで挫折してしまった。山に入ったら連絡手段はないのだ。(^_^;) まぁ、昔と同じだと思えばいい・・・