パプアニューギニアの山(2)

2月6日、登山基地の町ゴロカ(東京をポートモレスビーとすれば、松本みたいなもの)を出て、地元の人たちがハイウエイと言っている道を、ランドクルーザー2台に荷物と、ガイドたちと9人が分乗して出発、5分もたたぬうちにタイヤの空気が無いのでと停車、これからに不安を感じさせる・・・

ここを走っている、自動車は、ほとんどがトヨタのランドクルーザー(トラックもある)で、他も、100%近くが日本車で占められている。あとで、その理由を知ることになる。他の車では走れないし、耐久性が持たないのだ。

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最初は、アスファルトのまぁまぁの道だったが、2,480mの峠を越えるころから、舗装がところどころ剥がれており、荷台にある、クッションのない簡素な横向きのシートに座っていると、時々突き上げるようなショックが腰を襲う・・・(@_@;) こんな道でも、アメリカのkenworth社のコンボイは、コンテナーを積んで爆走している。

聞けば、液化天然ガスのプラントを日本が受注して、その建設に向かっているらしい。生産量の660万トンのうち半分が日本用なのだそうだ。 T電さんも購入先だそうだ。つかまるところも無く、足を突っ張っているので、とても、車内では写真が撮れる状況ではない。 道端には、小さな売店?が並び、大勢の人がだだ歩いているか、バス(といってもトラックの荷台)を待っている。

なぜか、検問だけ一人前で、定員や、整備のステッカーを貼ってあるかなど、調べられ、一台は、フロントガラスを交換していて、ステッカーがなかったので、罰金を取られ、ドライバーが怒り狂ったそうな・・・

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ハイウエイと山道の分岐の町、クンデアワで、昼食をとり、いよいよ本格的な未舗装路となる。

ここにも、簡素な飛行場があり、ニューギニア航空の路線図にもあったので、飛行機でこれるかも知れない。 

雨季なので、最近起きたばかりの、土砂崩れ現場をなんとか通り抜けてゆくが、振動はハイウエイの比ではない。全身でへばりついている感じで、休んだ時しか写真が撮れない。不思議なことに、道幅は昔の上高地線の2倍はあるので、谷底に落ちる不安は、あまり感じないで済んだ。

ランクルでも、通れるか通れないかの場所には、何故か村の人たちが何人か立っている。止まったら、押してくれるらしい。見返りは求めないのだろうか??

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突っ張っていた、腕も足も疲れ果て、ケグスグル村のベティさんのロッジ(2700M)に着く。歓迎の花の文字がうれしい。 今後来る方は、車に乗るときには、低反発マットとヘルメットを装着することをお勧めする。(>_<)

ちょっと手前の、マウントウイリヘルムハイスクール(寄宿学校)の前に、ブッシュ飛行場があったので、クンデアワから、アラスカのアプローチに使うような、軽飛行機かヘリをチャーターするのもひとつのやり方だと思う。

ベティさんは、3か月ほど、松本近くの明科町で、マスの養殖を学んでいたことがあるそうで、全員が松本の人間だと言ったら、大歓迎を受けた。明科では、いつも、金曜日には、みんなで飲みに行っていたそうだ。

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早速、ベティさんの自宅のそばの、養殖場に案内してもらう。 本格的なもので、びっくり。5m位の円形のプールには、何万匹いるのか分からないほどのマスの稚魚が泳いでいた。 JAICAの協力も得て、作ったが、一回、川の決壊ですべてを失ったが、再度作ったそうだ。まさに、肝っ玉母さんだ。ベディさんのロッジは2段ベッドの部屋だが、清潔で、マスのスープやムニエルやフルーツ、デザートまで、食事もおいしい。とても山の中とは思えない。

パプアニューギニアの山(1)

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2月4日から1週間、パプアニューギニアの最高峰である、ウイルヘルム山(4508m)に登ってきました。パプアニューギニアは、オーストラリアのすぐ右上にある大きな島で、左半分はインドネシアになっています。

第二次世界大戦の時は、ラバウルやレイなど、日本軍が無援の戦いを強いられ、多くの日本兵が亡くなった悲しい歴史のあるところでもあります。

仲間は、日本山岳会信濃支部で、何人かは同じガイド組織に属しており、年齢は、50代後半から70代前半までの8人と、毎日新聞の記者さんでした。年はとっていても、皆、現役で山を続けており、8000mを登ったことがあるAさんをはじめ、ほとんどの隊員が5000m以上を経験しており、天候を除けばあまり不安は感じませんでした。

日本から、6時間半ほどの直行便で、首都ポートモレスビーに早朝着き、国内線に乗り換えて、1600mの高地にある町、ゴロカまで、一気に入ってしまうので、暑さに弱い私でも、なんとかなりました。しかし、-10度から、30度は、なかなか順化は難しかった・・・

 

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40人乗りの双発機は、ネパールの、カトマンズからポカラの時に乗ったものと同じものでした。道路や鉄道が通じていないので、地元の人が、野菜や果物、生活必需品と一緒に乗り込んできました。

1時間半ほどのフライトで、ゴロカの空港に着くと、金網の向こうで、学校の制服を着た、若い女の子たちが、大勢、わんわんと泣き叫んでいて、びっくりしました。まさか、この土地では、これが歓迎の挨拶なのだろうかと思いましたが、実は数日前にレイ沖で沈没したフェリーの乗客の中に、同級生がいて、その遺体が、私たちとともに運ばれてきたのでした。知らなかったこととはいえ、失礼なことを考えてしまったものです。ごめんなさい。

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早速、ホテルにチェックインして、町のマーケットへと見物に出かけました。果物(特にパイナップルが旬)はもちろん、日本にある野菜はなんでも、そして、シダ類みたいなものも売っており、なんか親しみを感じましたが値切りは禁止だそうで、みんなが同じ値段で、同じものをいっぱい売っているのだから、競争原理が働かないのではと思うのですが、そんなことは、現地の人にしてみれば、変な東洋人の考えることでしかないのでしょう?

ホテルに戻って、日本にローミングの携帯電話で連絡しようとしましたが、できません。ネット接続もできると書いてあったのですが、最近の悪天候で、壊れているそうだ。携帯電話だけでも、山に持って行こうという思惑はここで挫折してしまった。山に入ったら連絡手段はないのだ。(^_^;) まぁ、昔と同じだと思えばいい・・・