バックカントリースキーの履歴書1
そろそろ、各地のスキー場も、終了を迎えようとしています。でも雪の多かった北部のスキー場は、延長するところもあるようです。
ごれからは、本格的にバックカントリースキーのシーズンになります。昔は、山スキーなどと言っておりました。この季節には、子供の頃から、父に連れられて、スキー場を飛び出し、鈴蘭~乗鞍岳~平湯~西穂山荘~上高地、妙高山、栂池~蓮華温泉(雪倉岳)などは、高校生くらいまでで登りました。道具は、ほとんど、ゲレンデスキーのもので、足の上がるビンディングなどは、親父しか履いていませんでした。
大学で山岳部に入りましたが、山スキーは盛んではなく、一年生で冬の剣の早月尾根を登った時などは、個人装備と団体装備のほかに、嗜好品の一部として190センチのスキーを担いで行き、帰りに荷物をいっぱい背負わされて、スキーができず、番場島から伊折まで、先輩が自分のスキーで滑ってゆくのを悲しく見送った覚えがあります。(;_;)/~~~ でも、早く着いて、待っていた先輩は、風邪を引いたそうな・・・ 天罰?
このころ、思いはヨーロッパのオートルート(シャモニ~ツエルマット~ザスフェ)にありましたが、心に秘めて、岩登りや冬の縦走などの合宿を頑張っていました。4年生になり、リーダーになったものの、山スキーを主体にするわけにもいかず、たまたま、小樽に居たことがある一年生が入ってきたので、特に可愛がって鍛え(^_^;)、春合宿が無事終了した後、2人で個人山行として、槍ヶ岳~立山のスキー縦走をすることができました。1978年の春の事です。
なにせ、二十歳やそこらの2人が3月に黒部の奥地に入るのですから大変です。当時は、携帯も無く、孤立無援になることも考え、営んでいた黒部五郎小舎に一週間分の食料と酒(合宿では禁止)をデポしておいたのですが、それでも荷物は20キロを超えました。スキー登山靴などはなく、バーゲンで買ったメタルのショートスキー(折れてもなんとか滑れるのではと思った)にその頃出始めた、ワイヤー式のジルブレッタ(換えのワイヤー3本)を付け、シールなどは、3000円で売っていたナイロンと布のをナイロンの部分を外して、カーペット用の両面テープで張り付け、立山の一の越まで貼りっぱなしで、滑る時も大丈夫でした。と書くと、快適なように思われますが、滑るのはいいとして、登るときにも滑っていまい、腕の力で登ったようなものです・・・ 2に続きます
ワイヤー式のジルブレッタ、ゲレンデスキーのビンディングと比べると、靴が上下は良いのですが、左右にも動いてしまうので、
なかなか思うように扱えなかったですね!
数十年前に蝶が岳の頂上で滑りました。
Bootaroh 様
ご覧いただき、有難うございます。ジルブレッタも、この後、プレート付きの改良版が出たのでした。ただ、セーフティシステムがないので、私のように登山靴だと良いのですが、スキー靴で履いて、骨折する人が結構いました。